計算と実験の協働によるがん光免疫療法薬剤の作用機序の解明

 光免疫療法は,がん細胞以外に対してほとんど毒性を示さないため,副作用の極めて小さい治療法です。さらに,がん免疫を合理的に活性化させる効果があることも発見されており,転移したがんへも有効であるなど,今後のがん治療を大きく変える可能性がある治療法として注目されています。光免疫療法では,IR700という水溶性のケイ素フタロシアニン化合物を結合させた抗体(抗体-IR700複合体)をがん細胞に結合させます。抗体-IR700複合体を投与した後,近赤外光を照射すると,IR700の水溶性の軸配位子が外されて薬剤が凝集することで,薬剤が結合したがん細胞のみを殺すことができます。しかし,近赤外線がどのように薬剤に作用して水溶性軸配位子の切断が起こるのか,また,この反応のスイッチは近赤外線でなくてはいけないのかは未解明でした。

 本拠点の武次徹也教授(理学研究院,専門:計算化学)と小川美香子教授(薬学研究院,専門:光療法,分子イメージング)のグループの共同研究により,このIR700の光化学的反応過程が解明されました[1]。まず,IR700の水溶性軸配位子が切断される反応は,化学的にはIR700の周辺にある水分子との反応(加水分解)により起こることが計算機シミュレーションと同位体標識実験により明らかになりました。また,IR700に近赤外線が照射されるとIR700は励起状態になりますが,この励起状態から直接水溶性軸配位子が切断される反応が進行する訳ではないこともわかりました。IR700は励起状態になったあと,システインなどの電子を与えやすい化学物質から電子を受け取り,ラジカルアニオン状態になります。コンピュータシミュレーションの結果から,IR700のラジカルアニオン状態では,容易に水分子と反応して軸配位子が切断されることが示唆され,また,溶媒の水素イオン濃度により軸配位子切断反応の速度が変化することを予見し,実際に実験を行ってこれを証明しました。また,この作用機序に基づき,IR700よりも軸配位子切断が容易な軸配位子を設計し,実証することにも成功しました[2]。

 これらの結果は,IR700のラジカルアニオン状態を作り出すことができれば,近赤外線を用いなくても抗体-IR700複合体を用いたがん治療が可能であることを示唆しています。光免疫療法は,がん細胞を選択的に殺傷できる画期的な治療法ですが,がん細胞に結合させたIR700に近赤外線を照射することでがんの破壊が開始されるため,近赤外線が届きにくい生体深部のがんに適用するためには,光ファイバーを患部に埋め込むといった侵襲的な処置が必要であり,また,適用できる部位も限定的です。現在,本拠点では,治療の適用範囲拡大を目指して,ラジカルアニオン状態を生成する別の化学的方法を用いてIR700によるがん治療が行えないか,検討を進めています。

[1] M. Kobayashi, M. Harada, H. Takakura, K. Ando, Y. Goto, T. Tsuneda, M. Ogawa, and T. Taketsugu, ChemPlusChem 85 (9), 1959-1963 (2020).

[2] H. Takakura, S. Matsuhiro, M. Kobayashi, Y. Goto, M. Harada, T. Taketsugu, and M. Ogawa, J. Photochem. Photobiol. A Chem. 426, 113749 (2022).


IR700の光化学反応過程とその後のがん細胞死